美しかった。とても育ちがよく親切だった。英国の大きな港町の近傍でたぶん見かけるだろうものと 何という違いだろう。日本人はアメリカ人のように、きちんとした清潔な衣服を身につけることで 自分自身とまわりの人びとへの尊重の念を現すのだ。老人と目の見えぬ者へのいたわりは 旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では 彼らにかないはしない。 イザベラ・バード「日本奥地紀行」より
『いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための 文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。 その国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、 そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な 情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もう としているように思われてならない(ヒュースケン,1857)』
『私は心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運に巡り会いたい ものだと密かに希った。しかし同時に私はまた、これまでこの国は実に幸運に 恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに 耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった(カッテンディーケ,1859)』
『封建制度一般、つまりこの国を現在まで支配してきた機構について何と 言われ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。 すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は 幸せで満足していたのである(ヒューブナー,1871)』
『彼らは不信を抱いたりあつかましく振舞うことは一度もなく、ときには道案内 のために、世話好きであるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、 あるいは子供たちにそれを命じたりした(オイレンブルク使節団)』
『もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭 か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の 責任だと言って拒んだ(バート,1878)』
『柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはサッパリしていて、 態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている 不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さ を保っている(ハリス,1856)』 『郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田 があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく天恵を受けた国、 地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せ な国に集まっている(リュードルフ,1855)』 『他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たない ことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるもの である。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が 一つもない(カッテンディーケ)』 『彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、 富者も貧者もない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というもの だろう。私は時として、開国して外国の影響を受けさせることが、 果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、 疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国に おけるよりも多く見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と 満足とは、この国の顕著な姿であるように思われる(ハリス,1857)』 『貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない(チェンバレン)』 『金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。…本物の平等精神、 われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々 まで浸透しているのである(チェンバレン)』 『住民が鍵もかけず、なんらの防犯策も講じずに、一日中家を空けて 心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている(クロウ)』 『私は全ての持ち物を、ささやかなお金を含めて、鍵も掛けずに置いて いたが、一度たりとなくなったことはなかった(ムンツィンガー,1890)』
『職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが 関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。 …庶民が使う安物の陶器を扱っているお店に行くと、色、形、装飾 には美の輝きがあります』『ここでは、貧しい人の食卓でさえも最高級 の優美さと繊細さがある(ベーコン)』 『ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に すぎない。ところがここでは、芸術は万人の所有物なのだ(ヒューブナー)』 『この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。……日常生活の 隅々までありふれた品物を美しく飾る技術(チェンバレン)』 『この国を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の 組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、 いっそう明白になってくる(オリファント)』 『絶対専制支配において、個人は時に立憲的なヨーロッパ諸国家において よりも多くの権利をもっていた(ヴェルナー)』 『現に二つの社会が存在していて、一つは武装した特権階級で、広い城塞 の中に閉じこめられており、もう一つは武器は取り上げられ前者に屈服させ られているが、自由から得られる利益をすべて受けているらしい(アンベール)』 『彼らは完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も 享受していないと普通想像される。ところが私は彼らと交際してみて、まったく 反対の現象を経験した。専制主義は名目だけであって、実際には存在しない』 『自分たちの義務を遂行する人たちは、完全に自由であり独立的である。 奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも 報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級 のものもほぼ満足している(フィッセル,1833)』 『身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民』 『青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張する ことも教えられているのである(スエンソン)』 『上層階級は下層の人々を大変大事に扱う』 『主人と召使の間には通常、 友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあって まず未知の関係といってよい(スエンソン)』 『いたるところに見かけるこの礼儀正しさのなかに、私は民主的?ほかに 適切な言葉がない?と呼んでもよさそうなものを感じる。下の者が礼節や 服従の義務を果たした後で、明らかにそれとわかる個人的な興味を物事 に示す様子を見て私はそれを感じる(ラファージ)』 『卑屈でもなく我を張ってもいない態度からわかるように、あらゆる階層が 個人的な独立と自由を享受していること(バート)』 『どの村にも鶏はたくさんいるが、食用のためにはいくらお金を出しても 売ろうとはしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、 喜んで手放す(バード)』 「黒い牡牛を一頭購入した。値段はすぐに折合いがついたのだが、 やがて牛が食用に供されるのだと知った村人は『断固として商売を 拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば 売ってよいが、屠殺するのなら売らないというのであった(ブラントン)』」 『彼らの死を恐れないことは格別である。むろん、その近親の死に 対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移る ことは、ごく平気に考えているようだ(カッテンディーケ)』
おまけ
■朝鮮通信使、金仁謙(Kim In Kyeom)の著書『日東壮遊歌』
●1764年1月22日 大阪 100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。嘆かわしく、恨めしい。
●1764年1月28日 京都 街の繁栄では大阪には及ばない。しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。この豊かな楽園を日本人が所有しているのだ。悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。悔しい。この犬のような日本人を全て掃討したい。この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
●1764年2月3日 名古屋 街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。中原(中国の中心地)にも無い風景だ。朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。人々の美しさも最高だ。特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。 (帰路にて) 名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
●1764年2月16日 江戸(東京) 左側には家が連なり、右側には海が広がっている。山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。全てが大阪や京都より三倍は優っている。この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
●1764年7月8日、ソウル到着
朝鮮通信使 日本国内の道中や文化交流の際にも周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態度をとることが多かった。 その他として、食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませるといった通信使一行の 行状も記録に残っている。このような事情から、通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽(見世物) であった反面、多くの賦役を課される沿道の町人や農民には嫌われ、鶏を盗むなどして喧嘩沙汰になることも 多々あったようであるが、横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたといいます。
第1回 1607年(慶長12年) 回答兼刷還使(捕虜返還) 第2回 1617年(元和3年) 回答兼刷還使(捕虜返還) 第3回 1624年(寛永元年) 回答兼刷還使(捕虜返還)・家光襲封祝賀(新将軍就任式祝い) 第4回 1636年(寛永13年) 以降、通信使として派遣 第5回 1643年(寛永20年) 家綱誕生祝賀(赤ん坊誕生祝いのために、呼ばれた) 第6回 1655年(明暦元年) 家綱襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第7回 1682年(天和2年) 綱吉襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第8回 1711年(正徳元年) 家宣襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第9回 1719年(享保4年) 吉宗襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第10回 1748年(寛延元年) 家重襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第11回 1764年(明和元年) 家治襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた) 第12回 1811年(文化8年) 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)
(2008.04.19 画像追加)
昔の日本の一端を知る事ができます。まったり~~。
美しかった。とても育ちがよく親切だった。英国の大きな港町の近傍でたぶん見かけるだろうものと 何という違いだろう。日本人はアメリカ人のように、きちんとした清潔な衣服を身につけることで 自分自身とまわりの人びとへの尊重の念を現すのだ。老人と目の見えぬ者へのいたわりは 旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では 彼らにかないはしない。
イザベラ・バード「日本奥地紀行」より
『いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための 文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。 その国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、 そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な 情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もう としているように思われてならない(ヒュースケン,1857)』
『私は心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運に巡り会いたい ものだと密かに希った。しかし同時に私はまた、これまでこの国は実に幸運に 恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに 耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった(カッテンディーケ,1859)』
『封建制度一般、つまりこの国を現在まで支配してきた機構について何と 言われ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。 すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は 幸せで満足していたのである(ヒューブナー,1871)』
『彼らは不信を抱いたりあつかましく振舞うことは一度もなく、ときには道案内 のために、世話好きであるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、 あるいは子供たちにそれを命じたりした(オイレンブルク使節団)』
『もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭 か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の 責任だと言って拒んだ(バート,1878)』
『柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはサッパリしていて、 態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている 不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さ を保っている(ハリス,1856)』
『郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田 があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく天恵を受けた国、 地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せ な国に集まっている(リュードルフ,1855)』
『他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たない ことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるもの である。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が 一つもない(カッテンディーケ)』
『彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、 富者も貧者もない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というもの だろう。私は時として、開国して外国の影響を受けさせることが、 果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、 疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国に おけるよりも多く見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と 満足とは、この国の顕著な姿であるように思われる(ハリス,1857)』
『貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない(チェンバレン)』
『金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。…本物の平等精神、 われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々 まで浸透しているのである(チェンバレン)』
『住民が鍵もかけず、なんらの防犯策も講じずに、一日中家を空けて 心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている(クロウ)』
『私は全ての持ち物を、ささやかなお金を含めて、鍵も掛けずに置いて いたが、一度たりとなくなったことはなかった(ムンツィンガー,1890)』
『職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが 関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。 …庶民が使う安物の陶器を扱っているお店に行くと、色、形、装飾 には美の輝きがあります』『ここでは、貧しい人の食卓でさえも最高級 の優美さと繊細さがある(ベーコン)』
『ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に すぎない。ところがここでは、芸術は万人の所有物なのだ(ヒューブナー)』
『この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。……日常生活の 隅々までありふれた品物を美しく飾る技術(チェンバレン)』
『この国を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の 組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、 いっそう明白になってくる(オリファント)』
『絶対専制支配において、個人は時に立憲的なヨーロッパ諸国家において よりも多くの権利をもっていた(ヴェルナー)』
『現に二つの社会が存在していて、一つは武装した特権階級で、広い城塞 の中に閉じこめられており、もう一つは武器は取り上げられ前者に屈服させ られているが、自由から得られる利益をすべて受けているらしい(アンベール)』
『彼らは完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も 享受していないと普通想像される。ところが私は彼らと交際してみて、まったく 反対の現象を経験した。専制主義は名目だけであって、実際には存在しない』
『自分たちの義務を遂行する人たちは、完全に自由であり独立的である。 奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも 報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級 のものもほぼ満足している(フィッセル,1833)』
『身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民』
『青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張する ことも教えられているのである(スエンソン)』
『上層階級は下層の人々を大変大事に扱う』
『主人と召使の間には通常、 友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあって まず未知の関係といってよい(スエンソン)』
『いたるところに見かけるこの礼儀正しさのなかに、私は民主的?ほかに 適切な言葉がない?と呼んでもよさそうなものを感じる。下の者が礼節や 服従の義務を果たした後で、明らかにそれとわかる個人的な興味を物事 に示す様子を見て私はそれを感じる(ラファージ)』
『卑屈でもなく我を張ってもいない態度からわかるように、あらゆる階層が 個人的な独立と自由を享受していること(バート)』
『どの村にも鶏はたくさんいるが、食用のためにはいくらお金を出しても 売ろうとはしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、 喜んで手放す(バード)』
「黒い牡牛を一頭購入した。値段はすぐに折合いがついたのだが、 やがて牛が食用に供されるのだと知った村人は『断固として商売を 拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば 売ってよいが、屠殺するのなら売らないというのであった(ブラントン)』」
『彼らの死を恐れないことは格別である。むろん、その近親の死に 対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移る ことは、ごく平気に考えているようだ(カッテンディーケ)』
おまけ
■朝鮮通信使、金仁謙(Kim In Kyeom)の著書『日東壮遊歌』
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。嘆かわしく、恨めしい。
●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。この豊かな楽園を日本人が所有しているのだ。悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。悔しい。この犬のような日本人を全て掃討したい。この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
●1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。中原(中国の中心地)にも無い風景だ。朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。人々の美しさも最高だ。特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
●1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。全てが大阪や京都より三倍は優っている。この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
●1764年7月8日、ソウル到着
朝鮮通信使
日本国内の道中や文化交流の際にも周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態度をとることが多かった。 その他として、食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませるといった通信使一行の 行状も記録に残っている。このような事情から、通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽(見世物) であった反面、多くの賦役を課される沿道の町人や農民には嫌われ、鶏を盗むなどして喧嘩沙汰になることも 多々あったようであるが、横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたといいます。
第1回 1607年(慶長12年) 回答兼刷還使(捕虜返還)
第2回 1617年(元和3年) 回答兼刷還使(捕虜返還)
第3回 1624年(寛永元年) 回答兼刷還使(捕虜返還)・家光襲封祝賀(新将軍就任式祝い)
第4回 1636年(寛永13年) 以降、通信使として派遣
第5回 1643年(寛永20年) 家綱誕生祝賀(赤ん坊誕生祝いのために、呼ばれた)
第6回 1655年(明暦元年) 家綱襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第7回 1682年(天和2年) 綱吉襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第8回 1711年(正徳元年) 家宣襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第9回 1719年(享保4年) 吉宗襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第10回 1748年(寛延元年) 家重襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第11回 1764年(明和元年) 家治襲封祝賀(新将軍就任祝いのために、呼ばれた)
第12回 1811年(文化8年) 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)
(2008.04.19 画像追加)
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